日清戦争陸戦史

派兵

明治27年6月2日、東学党の乱を契機に朝鮮出兵が決定し、それに伴い6月5日に大本営が開設された。 また派遣される部隊は、第五師団隷下の、宇品港に近い歩兵第九旅団に各種部隊を編合した混成旅団と決定した。 混成旅団の戦闘序列は表1の通りである。6月6日、混成旅団の完成を待たずに、歩兵一大隊を先発させる事が決定し、 第五師団長に之を命令した。そこで、歩兵第十一聯隊第一大隊が、6月9日午前、先遣隊として宇品を出発し、 6月12日に仁川に入った。翌13日午後には京城入り、海軍陸戦隊に代わって公使館の守備に就いた。 旅団の残りの部隊も、第一次輸送船団が6月15日に、第二次輸送船団が6月27日夕刻に仁川に入港した。 上陸した旅団主力は京城に集中した。7月23日、王宮の側を通過中の部隊に、朝鮮守備兵が発砲してきたため 応射し、これを追払った。以後朝鮮王宮は日本軍が守備をする事になった。

成歓の役

状況は切迫しており、平壌に清軍の大軍が集結するのは時間の問題であった。 大島旅団長は、南北で挟撃されるのを避けるため、まず牙山の敵を討つことに決し、7月25日、 およそ三千の兵力で南下を開始した。牙山には葉志超率いる清軍約四千がいたが、 葉は副将聶士成に三千の兵で成歓に進出させ、自らは約千名を率いて後方の天安にさがってしまった。 聶は7月26日に進出を開始。主力を成歓附近に置き、全砲兵を牛歇里に配置した。

表1:混成旅団戦闘序列

旅団長
大島義昌

参謀
長岡外史

歩兵
第十一
聯隊長

西島助義

第一大隊長
一戸兵衛

騎兵第五大隊
第一中隊長
豊辺新作

野戦砲兵
第五聯隊
第三大隊長
永田 亀

工兵第五大隊
第一中隊長
蘆澤正勝

輜重兵隊

衛生隊

第一野戦病院

第二野戦病院





 



第二大隊長
橋本昌世

第三大隊長
松本箕居

歩兵
第二十一
聯隊長

武田秀山

第一大隊長
森 祗敬

第二大隊長
山口圭蔵

第三大隊長
古志正綱

大島旅団長は軍を二つに分けた。即ち、右翼隊は成歓方面へ進み、大島少将は左翼隊・ 砲兵団・予備隊を率いて東方へ迂回した。しかし、徴募した朝鮮人夫の大半が逃亡したため、行軍は難航を極めた。 特に、第二十一聯隊第三大隊などは、人夫駄馬すべてが逃亡し、ために部隊は前進が不可能となった。 大隊長の古志少佐は責任を痛感し、割腹自決してしまった。29日午前3時20分、右翼隊の前衛部隊が、 佳竜里附近で清国軍と衝突した。この戦闘で、白刃を揮って先頭に立った松崎直臣大尉が戦死したが、 武田中佐は三個中隊を集め敵の左翼に向かって吶喊を命じ、これを敗走させた。この時戦死したラッパ卒の話が、 美談として有名になった。左翼諸隊は29日午前6時、成歓東北の罌粟坊主山に猛攻をかけ、これを落した。 聶士成は南方に敗走し、ここに日本軍の成歓攻略は成功した。一方右翼隊も、独立騎兵の支援を受けて、 7時40分牛歇里を陥落させた。大島旅団長は、敵が牙山に敗走したと思い牙山に向かったが、清国兵は影も形も無く、 我軍はこれを簡単に占領すると、7月31日には、京城へ戻るため牙山を出発した。

開戦

8月1日、ついに天皇は宣戦の詔勅を発布した。8月2日、第五師団残部の輸送が開始され、23日にはすべての部隊が 竜山にある混成旅団旧幕営に入った。8月4日、第三師団に動員が下令され、15日に漸く完了した。そして佐藤聯隊長 率いる第十八聯隊がまず出発、8月30日に元山に到着した。 8月5日に竜山に到着した大島旅団長は、朝鮮官民の盛大な出迎えを受ける。旅団長は、清軍が南進してきた場合に 備え、臨津鎮支隊と朔寧分遣支隊を編成してこれに備えた。8月19日、野津師団長が京城に到着したので、混成旅団 の戦闘序列は解かれ、諸部隊は師団長の指揮下に復した。8月27には日韓攻守同盟が発表され、9月1日には、 第五師団と第三師団を合せて指揮する第一軍の戦闘序列が下令された(表2参照)。9月4日、第一軍司令部と 第三師団残部の輸送が開始され、山縣軍司令官と桂師団長は、9月13日に京城に入った。

平壌攻略

野津師団長には、ある程度作戦の自由が与えられていた。京城に到着した野津は、情報を分析し、現在平壌にいる 清軍はおよそ一万四千程度であると判断した。彼は、清軍が集結し終わる前にこれを打ち破って、朝鮮から清軍を 追払ってしまおうと考え、次の作戦を下令した。
  1. 従来の混成旅団から朔寧分遣支隊を除いたものを混成第九旅団とし、これは義州街道を前進し、 正面から攻撃をかける。
  2. 朔寧分遣支隊と砲兵中佐柴田正孝の指揮下にあって、目下元山から京城に向かって いる諸隊(歩兵第十二聯隊第一大隊、野砲兵第五聯隊本部と第一中隊)を合せて朔寧支隊とし、立見少将が率いて、 遂安、三登、江東を経て敵の左翼に当たる。
  3. 師団主力は大同江の下流を渡って敵の背後に迫る。
  4. 佐藤大佐率いる第三師団第十八聯隊を元山支隊とし、成川を経て順安に出て、北方の退路を断つ。
総攻撃の期日は9月15日とし、8月31日進軍を開始した。

一方清軍は、7月上旬から、平壌に進駐を開始し、9月には

のおよそ一万六千が集結していた。当初、李鴻章は首将に劉銘伝を据えようとしたが、劉がこれを固辞したため、 衛、馬、左、豊の四将が協議して事にあたることとなった。成歓の敗報が伝わると、四将は出撃を取りやめ、 防禦工事に掛かった。8月23日には葉志超、27日には聶士成の敗軍が到着した。9月6日に我が混成第九旅団の 第十二聯隊が、孤軍黄州に進出してきたのを偵知し、7日に馬玉崑と左宝貴の率いる七千が出撃したが、 東北方面からの元山、朔寧支隊の進出を知り不安になった葉志超に呼び戻され、それ以降はひたすら 守備を固めていた。馬、左両将は大いに不満であった が、葉は六将の中で最上級の位階を持っていたので、従わざるを得なかったのである。

表2:第一軍戦闘序列

軍司令官:山縣有朋
参謀長:小川又次 参謀副長:田村怡与造
砲兵部長:黒田久孝 工兵部長:矢吹秀一

第三師団

第五師団

師団長:桂 太郎
参謀長心得:木越安綱
参謀:星野金吾 榊原忠誠 児島八二郎

師団長:野津道貫
参謀長:上田有沢
参謀:仙波太郎 山口圭蔵

歩兵第五旅団
長:大迫尚敏

歩兵第六旅団
長:大島久直

歩兵第九旅団
長:大島義昌

歩兵第十旅団
長:立見尚文

第六聯隊長

塚本
勝嘉

第十八聯隊長

佐藤

第七聯隊長

三好
成行

第十九聯隊長

粟飯原
常世

第十一聯隊長

西島
助義

第二十一聯隊長

武田
秀山

第十二聯隊長

友安
治延

第二十二聯隊長

富岡
三造

第一大隊長岡本忠能第二大隊長小野寺実第三大隊長奥宮正勝 第一大隊長石田正珍第二大隊長門司和太郎第三大隊長牛島本蕃 第一大隊長内藤新一郎第二大隊長富永政利第三大隊長鈴木常武 第一大隊長藤本太第二大隊長小原芳次郎第三大隊長林太一郎 第一大隊長一戸兵衛第二大隊長橋本昌世第三大隊長松本箕居 第一大隊長森祗敬第二大隊長山口圭蔵第三大隊長奥山義章 第一大隊長富田春壁第二大隊長半田隆時第三大隊長岡見正勝 第一大隊長今田唯一第二大隊長安満伸愛第三大隊長伊藤武薫

騎兵第三大隊長:田村久井

騎兵第五大隊長:木村 重

野戦砲兵第三聯隊長
柴野義広

第一大隊長:中村ユ三郎
第二大隊長:兵頭雅譽
第三大隊長:迫水周一

野戦砲兵第五聯隊長
柴田正孝

第一大隊長:四宮信応
第二大隊長:山内定矩
第三大隊長:永田 亀

工兵第三大隊長:佐川耕作

工兵第五大隊長:馬場正雄

弾薬大隊 輜重兵第三大隊長:岡田貫久 衛生隊 野戦病院 弾薬大隊 輜重兵第五大隊長:平尾信寿 衛生隊 野戦病院

予備砲廠長:秋元盛之 第三野戦電信隊 第六野戦電信隊

兵 站 部
兵站監:塩屋方国 参謀長:竹内正策

9月15日午前3時、混成第九旅団の各隊が、平壌南正面に攻勢をかけたが、毅字軍の頑強な抵抗にあい、 退却を余儀なくされた。西方の師団主力の攻撃も捗々しく進まなかった。一方、東北方面から攻め寄せた朔寧支隊 と元山支隊は、城外の堡塁線を抜き、午前7時ごろにはほとんど合流した形で、北面の城壁攻撃に取り掛かっていた。 立見支隊が第二、第三堡塁を吶喊で奪うと、佐藤支隊も第四、第五堡塁に突撃を敢行してこれを奪った。そして、 牡丹台に猛攻を加え、ここに篭る敵を城内に追払った。しかし、ここで堅固な城壁に阻まれ、攻勢は停滞した。 清軍は、我軍を見下ろす形で猛射を加えてくる。元山支隊の大隊長門司少佐は、城内への侵入路を探す決死隊を 募った。歩兵中尉三村幾太郎がこれに応じ、工兵十六名を率いて玄武門に向かった。一隊は直ちに門楼に登ったが、 これに驚いた清軍も、直ちに射撃を加えてきた。このとき原田十吉一等卒が、 同僚の太田政吉と共に12メートルの高さを飛び降りて、忽ち内側から門を開き、小隊を迎え入れた。 続いて岡部中尉率いる小隊も合流したが、乙密台からの猛烈な射撃を受け、門を死守するの精一杯だった。 こうして、我軍の攻撃は完全に頓挫してしまった。 すると午前11時ごろ、突如七星門が開かれ、歩兵三百ばかりが、一際目立つ馬上の士を先頭に、元山支隊の 右翼砲兵陣地に向かって突出してきた。我砲兵は直ちに応射し、歩兵三個中隊も突進してこれを撃退した。 騎馬の主も山砲弾によって戦死したが、これがなんと左宝貴将軍であった。

実は平壌城内でも大きな異変が起きていたのだ。端から臆病風に吹かれていた葉志超は、牡丹台がおちた事と 玄武門に一隊が取り付いたことですっかりショックを受けてしまった。午前9時から会議が開かれ、そこで 葉は開城論を唱えた。驚いた馬玉崑と左宝貴は戦況の有利なるを説いて反対したが、衛汝貴らには すでに葉の弱気が感染していた。左宝貴は憤然と席を立った。そして七星門から出撃したのである。 勿論このような経緯は日本軍には分かるはずは無く、佐藤、立見両支隊もこの日の攻撃を諦めようとしていた。 すると午後4時40分、突然城壁に白旗が上がった。この報告を聞いた立見支隊長は、桂大尉を送って開城の 交渉をさせたが、一向に埒が明かない。佐藤支隊の方にも、朝鮮人の伝令が現れて、休戦を乞うてきた。 佐藤大佐は直ちに入城したい旨を伝えたが、明朝まで待ってくれと言って聞かない。兵を率いて押し入ろうとした ところで立見少将から入城中止の命令が届いた。野津師団長がこの白旗報告を受けたのは午後7時半であった。 師団長はしかし、これを我方を油断させる為の清軍の詐術だと疑い、かえって進撃を早めた。師団主力が 城内に入ったのは16日午前3時過ぎであった。清国兵はほとんどが逃亡しており、残っていたものは負傷者など 少数であった。城がおちた事に気付いた残りの部隊も、早朝からどんどん入城してきた。こうして平壌は陥落した。 我方の死者は百八十名であった。 一方、城を捨てた葉は安州に到着した。ここには約二千の兵がおり、さらに続々と逃げてくる敗兵収容していた。 聶士成は、ここで日本軍を待ちうけようと意見具申したが、葉は聞き入れず、義州を目指して落ちていった。 そこで守備隊もまた、先を争って退却をしたのである。

大本営

川上操六参謀本部次長は作戦を二期に分けて考えていた。第一期作戦は、まず第五師団を韓国に派遣して 清国軍を牽制すると同時に、国内の部隊の出征を準備し、一方で、日本艦隊は黄海に進出して、清国艦隊を 撃破し、制海権の獲得に努める。第二期作戦は、海戦の結果を待って(甲)(乙)(丙)の三つのどれかをとる。
表3:大本営

侍従武官

岡沢 精 中村 覚 斎藤 実 川島令次郎

軍事内局

内局長
岡沢 精

同局員:三須宗太郎 絲賀虎治郎 丹羽教忠

幕僚

幕僚長
熾仁親王

陸軍上席参謀:川上操六 参謀:東條英教 伊地知幸介
海軍上席参謀:樺山資紀 参謀:角田秀松 伊集院五郎
陸軍副官:大生定孝 海軍副官:鈴木四教

兵站総監:川上操六 参謀長:高木作蔵 参謀:福原信蔵 田村怡与造

兵站総監部

運輸通信長官
寺内正毅 

鉄道船舶運輸委員:山根武亮 松本 和

野戦高等電信部長:渡辺当次

野戦監督長官:野田豁通 同部員:遠藤慎司

野戦衛生長官:石黒忠悳 同部員:落合泰蔵

管理部

部長:村田 惇 副官:西田治六

陸軍大臣:大山 巌 海軍大臣:西郷従道

川上中将は、作戦丙の場合を真剣に考えたと言われている。なんといっても清国艦隊の定遠、鎮遠は 当時の第一級艦で、我が海軍はこれに対抗する艦を持っていなかったのであるから。 大本営は9月13日、東京を発ち、15日に広島に到着した。その2日後の17日、黄海海戦が行われ、 伊東祐亨中将率いる聯合艦隊が、丁汝昌の北洋艦隊を撃破した。これで作戦甲発動の条件が整った。 山海関を衝く第二軍の編成が進められ、10月3日にその戦闘序列が下令された。一方その頃、第一軍も 平壌に集結し終わっていた。

鴨緑江

10月3日、第一軍主力が義州を目指して北進を開始した。途中補給にさんざん苦しみ、義州に軍が集中したのは 10月23日であった。当時義州対岸の九連城の清国守備隊は、提督宋慶率いる右翼隊が劉盛休の銘字軍、聶士成の 牙山軍、馬玉崑と宋得勝の毅字軍、呂本元と孫顕寅の盛字軍小計一万八千人、黒竜江将軍依克唐阿率いる左翼隊が 倭恒額の斎字錬軍、将軍直属の鎮辺軍小計五千五百人、総計二万三千五百人であった。山縣軍司令官は、佐藤支隊長に次の ような命令を下した。
  1. 軍は25日払暁、虎山から安東県にわたって布陣する敵を攻撃する。
  2. その支隊は明24日午前、鴨緑江を渡り、栗子園に向かって進軍し、軍の攻撃を援助せよ。 ただし、なるべく単独で激戦することを避け、また第三師団が渡河すれば、これと合流せよ。
命令を受けた佐藤大佐は、24日午前11時、敵前渡河を敢行し、見事に成功させ、栗子園へ向かった。 翌25日未明、第三師団主力が軍橋を使って渡河。猛勇塚本大佐の第六聯隊が虎山に猛攻をかけた。 午前11時、4回目の吶喊でついに虎山の陣地は陥落。軍は虎山北方に進出し、翌日の九連城攻撃に備えた。 26日早朝、九連城を目指して第三師団、第五師団の前衛が進発。第五師団の前衛部隊が九連城近くの 高地を占領したが、全く清兵の姿が見えないことに不審に思い斥候を出したところ、すでに清国軍は退却 しており、九連城はもぬけの殻であることが判明した。実は、虎山が陥落した事にショックを受けた総帥宋慶は、 25日の夜にはすでに、鳳凰城を目指して逃走していたのである。総帥の逃亡で恐慌を来した清国軍は潰走、 九連城は一夜で空城と化していた。九連城北方の楡樹溝を攻撃し、石城まで前進してきていた第三師団長桂中将が、 この情報を受けたのは午前9時であった。桂中将は敵が安東県に退却したと判断し、直ちに南進を開始した。 安東県へ向かう道と九連城と鳳凰城を結ぶ遼陽街道が交叉する蛤蟆塘で、大迫少将率いる第三師団の前衛部隊と 鳳凰城へ向かう第五師団の立見支隊がぶつかった。大迫と立見は路上で協議し、第三師団主力は依然として 安東県へ、立見支隊は岔路子へ向かうことを決定し、まず立見支隊の前衛が十字路を通過、次に大迫少将の 部隊が通過し、その後立見支隊後衛が通過、最後に第三師団主力が通過した。この行進交叉が終わる頃、 第一軍参謀蠣崎大尉が馬を飛ばしてやってきて、第五師団主力は九連城にとどまり、第三師団は岔路子へ向かえ という命令を伝えた。しかし、交叉行軍はほとんど終わっており、立見支隊は西方に抜け、第三師団は南方に いるため、桂は独断で、そのまま安東県への進軍を決定、その旨を蠣崎参謀に伝えた。この判断の背景には、 来るべき第二期作戦で、少しでも北京に近い位置にという桂の思惑があった。安東県に簡単に入った桂は、 すぐさま大迫少将に大東溝の占領を命じた。27日午後8時、大東溝の占領が完了。翌28日、大迫少将は大孤山に 斥候を出し、清国兵がその方面に退却した事を知った。大孤山の清軍が北方に逃げ散った為、 11月1日、簡単にこれを占領した。一方鳳凰城の清国軍は、戦意が上がらず、結局後退して奉天で防ぐ事に決定し、 10月29日、宋慶らが退却を開始。ちょうどその日、立見少将率いる第五師団の前衛が、鳳凰城に到着。 ほとんど抵抗を受けず、30日にこれを占領した。

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