宇垣一成

明1・6・21〜昭31・4・30
| 明20・12 | 士官候補生として歩兵第10聯隊に入隊 |
| 21・11 | 陸士入校(1期) |
| 23・7 | 陸士卒 |
| 24・3 | 任歩兵少尉・歩兵第10聯隊付 |
| 24・4 | 近衛歩兵第2聯隊付 |
| 27・9 | 任歩兵中尉・大本営付 |
| 28・6 | 陸士生徒隊区隊長 |
| 30・12 | 陸大入校(14期) |
| 31・10 | 任歩兵大尉 |
| 33・12 | 陸大卒(恩賜)・歩兵第33聯隊中隊長 |
| 34・6 | 参本出仕 |
| 35・2 | 参本部員 |
| 35・8 | ドイツ駐在 |
| 37・1 | 任歩兵少佐 |
| 37・4 | 参本付 |
| 37・6 | 元山後備諸隊指揮官 |
| 37・10 | 後備第1師団参謀 |
| 38・3 | 韓国註剳軍参謀 |
| 38・5 | 第1軍参謀 |
| 38・12 | 参本部員 |
| 39・2 | ドイツ駐在 |
| 40・11 | 任歩兵中佐 |
| 41・12 | 参本総務部員 |
| 41・12 | 教総課員 |
| 42・8 | 教総第1課長 |
| 43・11 | 任歩兵大佐 |
| 44・9 | 軍事課長 |
| 大2・8 | 歩兵第6聯隊長 |
| 4・1 | 軍事課長 |
| 4・8 | 任少将・歩兵学校長 |
| 5・3 | 参本第1部長 |
| 7・11 | 兼参本総務部長 |
| 8・1 | 参本総務部長 |
| 8・4 | 陸大校長 |
| 8・7 | 任中将 |
| 10・3 | 第10師団長 |
| 11・5 | 教総本部長 |
| 12・10 | 陸軍次官 |
| 13・1 | 陸軍大臣 |
| 14・8 | 任大将 |
| 2・4 | 朝鮮総督臨時代理 |
| 昭2・4 | 軍事参議官 |
| 2・10 | 免朝鮮総督臨時代理 |
| 4・7 | 陸軍大臣 |
| 6・4 | 軍事参議官 |
| 6・6 | 依願予備役・朝鮮総督 |
| 11・8 | 免朝鮮総督 |
| 12・1 | 組閣の大命降下(流産) |
| 12・10 | 内閣参議 |
| 13.5 | 外務大臣 |
| 13・6 | 兼拓務大臣 |
| 13・9 | 外相・拓相を辞任 |
| 28・4 | 参議院議員 |
| 31・4 | 死去 |
政界の惑星宇垣一成大将は幼名を杢次といい、農家の末男として生まれた。 妻は小原芳次郎陸軍少将の娘。甥に宇垣莞爾海軍中将、 宇垣松四郎陸軍少将がいる。また宇垣纏海軍中将は、 血縁はないが家が隣で、交流があった。 小学校を卒業すると、母校の代用教員になり、16歳で教員検定試験に合格、隣村の小学校長となったが、 軍人を夢見て上京。成城学校に1年在学した後、陸軍士官学校に合格。 制度が改正された陸士の1期生となり、姫路の歩兵第十聯隊に入隊した。
日清戦争では、大本営管理部附に抜擢された。その後陸大14期を恩賜で卒業。 歩三十三の中隊長、参謀本部部員を経て、ドイツに留学。留学中に日露戦争が勃発し、帰朝。 後備第一師団参謀として北韓に出征。その後、鴨緑江軍参謀、第一軍参謀となった。戦後、再びドイツに駐在。明治41年に帰国し、翌年には教総第一課長となった。 教総第一課長時代、名課長として鳴らし、岡市之助の引きで軍事課長に。 軍事課長時代に、軍部大臣現役武官制の改正に強硬に反対し、業務をボイコット。 さらに怪文書まで飛ばしクビになるところを、本郷房太郎次官の計らいで、一時的に歩兵第六連隊長にとばされたが、 すぐに軍事課長に返り咲いた。
その後、陸軍歩兵学校長、参本第一部長、同総務部長、 陸大校長、第十師団長、教総本部長、陸軍次官と要職を歴任。 派閥的な話は別でするのでここでは省くが、とにかく清浦内閣で陸相として入閣。 強力な政治力と優れた先見性から、宇垣軍縮を行う。 その内容とは、4個師団を廃止するかわりに、浮いた予算で軍の近代化を図ると共に、 学校配属将校制度をはじめるというものであった。 しかしこの軍縮は、当時ただでさえ肩身の狭かった陸軍将校の恨みを買い、後に禍根を残した。清浦内閣の後も、第一次加藤内閣、第二次加藤内閣、第一次若槻内閣に陸相として留任。 宇垣時代をつくった。田中内閣では同期の親友白川義則に譲ったが、 浜口内閣で再入閣。このとき三月事件が起こる。事件の内容は別途書くが、このときの対応も 後に禍根を残した。事件翌月、若槻内閣成立で軍事参議官となり、間もなく自ら予備に入った。 そして朝鮮総督となり、宇垣とは合わなかった荒木貞夫ですら文句のつけようのない善政を敷いたという。
昭和12年1月、遂に組閣の大命が下る。しかし陸軍は、自由にならない、煩い宇垣を嫌い、 前年度に復活した軍部大臣現役武官制を盾に、陸相を出す事を拒んだ。 宇垣も朝鮮の小磯国昭に電話したりと粘ったが、結局涙を呑んで拝辞となった。 このとき宇垣に反対した石原莞爾も片倉衷も後年、この事は随分後悔したらしい。
その後、支那事変の火消しを頼まれ、近衛改造内閣に外相として入閣するが、 孔祥煕との長崎会談寸前で、土性骨の座らない近衛にあっさり裏切られて、御破算となった。 わずか4ヶ月で外相を辞任すると、終戦まで世に出る事はなかった。 しかしその後も重臣会議では、若槻礼次郎などの口から、 首班候補として名前が出ていたようだ。自決した中野正剛も、東條を引き摺り下ろした 後は、宇垣を首班とする内閣をつくるつもりでいた。清沢洌も、「暗黒日記」の中で 「国家を救うのはやはりこの人だろう」と書いている。昭和28年、参議院議員選挙に全国区で出馬、トップ当選を果たし、緑風会に入ったが、
間もなく病を得て逝去した。享年87歳であった。
宇垣は、事務においても隊務においても抜群の能力を有していたが、傲岸不遜な性格から
敵も多かった。しかし小磯によれば、彼も朝鮮総督時代あたりからは人間も練れて、
傲慢な面はすっかりなくなっていたそうである。彼が首相になっておれば、
歴史は大きく変わったと云う人は多い。しかし、昭和天皇にはもひとつ好かれてなかったようだ。
「宇垣日記」を残した。