岡本清福

明27・1・19〜昭20・8・15
| 大4・5 | 陸士卒(27期) |
| 4・12 | 任砲兵少尉・野砲兵第14聯隊付 |
| 7・11 | 砲工学校高等科卒 |
| 8・4 | 任砲兵中尉 |
| 9・4 | 野戦砲兵射撃学校教官 |
| 11・12 | 陸大入 |
| 13・3 | 任砲兵大尉 |
| 14・11 | 陸大卒(37期) |
| 15・12 | 参本付勤務将校 |
| 昭2・12 | 参本部員 |
| 4・9 | ドイツ駐在 |
| 5・8 | 任砲兵少佐 |
| 6・5 | ドイツ大使館付武官補佐官 |
| 7・8 | 野砲兵第3聯隊大隊長 |
| 8・8 | 参本部員 |
| 9・8 | 任砲兵中佐 |
| 10・8 | 参本作戦班長 |
| 11・6 | 軍事課高級課員 |
| 12・8・1 | 支那駐屯軍参謀 |
| 12・8・2 | 任砲兵大佐 |
| 12・8・30 | 第2軍作戦課長 |
| 13・12・10 | 参本付 |
| 14・3・9 | 野砲兵第4聯隊長 |
| 14・12・1 | ドイツ大使館付武官 |
| 15・8・1 | 任少将 |
| 15・11・13 | 参本付 |
| 16・3・1 | 参本第4部長 |
| 16・4・1 | 参本第2部長 |
| 17・8・17 | 南方軍総参謀副長 |
| 18・2・23 | 参本第4部長 |
| 18・3 | 遣独伊連絡使節団長 |
| 18・10・29 | 任中将 |
| 19・3・16 | スイス公使館付武官 |
| 20・8・15 | 自決 |
岡本清福中将は、父は憲兵大佐で大聖寺出身、本人は東京生まれ。 名古屋陸軍地方幼年学校は3番で、中央幼年学校は2番で卒業。砲兵科で陸士は27期(席次は42番)。 陸大は37期を次席で卒業、恩賜の軍刀を拝受。その後ドイツに駐在した。
昭和12年6月18日、軍事課高級課員だった岡本は北平に居た。 というのもその頃内地で「七夕に北支で第二の柳条湖事件が起こる」という噂が流れており、 心配した石原莞爾第一部長が彼を派遣したのである。 このとき北平の大使館付武官補佐官今井武夫少佐が、 北支に不穏な空気が漂っていることを縷々説明したが、帰還した岡本の報告は 「全体として大して心配する必要はない」というものであった。 翌月、蘆溝橋事件を発端に北支事変が起こり、岡本は第二軍の作戦課長として出征するが、 現地で今井に会うと、「君と会って現地の危険な情況を聞きながら、帰朝した直後、自分の楽観的報告に 反し、現実に盧溝橋事件が勃発したことは、全く自分の不明によるもので、君に対しても申し訳ない」 と率直に自らの過誤を詫びた。
昭和14年12月、駐ドイツ武官に発令され渡独、ナチスドイツの快進撃を目の当たりにし、三国同盟締結を強烈に支持。 帰国後の昭和16年4月、参本第二部長に就任し、大東亜戦争開戦を迎えた。 そして17年8月17日、南方軍総参謀副長となりシンガポールへ。
昭和17年10月、大本営連絡会議において遣独伊連絡使派遣が決定し、団長に岡本が内定した。そのため 18年2月23日、便宜的に参本第四部長となり内地に帰還。3月、遣独伊連絡使節団は東京を出発した。 団の目的は、駐独伊大使及び陸海軍武官に対し東亜の情勢、開戦の経緯、その後における帝國の実情を 明らかにし且つ三国爾後の戦争指導上相互協力強化の方途に関し研究することに在り、 団員は陸軍から甲谷悦雄中佐、海軍から小野田捨二郎大佐、 外務省から與謝野秀参事官であった。 一行はソ聯、トルコ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリーを経て、4月13日にドイツに到着した。
当時のヨーロッパ情勢は、漸く枢軸側に不利に傾きつつあった。ベルリンでは大島浩大使、 小松光彦少将等と会談したが、結論は極めて暗いものだった。 ともあれヨーロッパ情勢を仕入れた使節団は各地に散らばり、岡本はスイスに飛びこんだ。 そして昭和19年3月には、正式にスイス公使館附武官に発令された。当時バーゼルに居た国際決済銀行の北村理事、吉村部長は、 岡本中将に対しても率直に戦争継続の反対を訴えるような人であった。 岡本は表面上は彼等に反論しながらも、内心では揺れ動いていた。聡明な彼は、友邦ドイツに未来が無い事に 気付いていたのである。国内なら非国民のレッテルが貼られるであろう人々と、岡本は連絡をとり続けた。
昭和20年5月8日、遂にドイツが無条件降伏した。6月上旬に北村と会った岡本は、アメリカとの和平について切り出した。 「我陸軍はどこまでも戦い続けるつもりであるが、もしアメリカ側に我方と和平の意思があれば、当方もこれに応じたい。 その際、天皇の御安泰を第一の条件とする。 この工作はもちろん極秘のうちに実行し、外務省にも海軍にも絶対内緒にしておいて欲しい」 「私は梅津(美治郎)さんからは信頼されているので、この進言も恐らく取り上げてくれると思う。また、梅津さんの人望と 力をもってすれば、我陸軍を抑えることも、そんなにむつかしくはないと思われる」と述べた。 北村は、かかる重大事項を公使の了解無しに行うのは良くないと意見し、岡本もその点は了解した。 北村は早速加瀬俊一スイス公使に会い、中将の肚を伝え了解を得た。 そして国際決済銀行理事でスウェーデン人のペル・ヤコブソンに連絡をとった。
ヤコブソンは広い人脈を持ち、アメリカ情報機関とも交際があった。ヤコブソンとの交渉は7月10日 頃から始まった。ヤコブソンは北村らの依頼を承諾すると、ドイツに居たアレン・ダレス に日本側の意向を伝えた。ダレスは、諜報機関OSSのヨーロッパ総局長で、ジョン・フォスター・ダレス を兄に持ち、ホワイトハウスの信任も厚い人物である。ダレスはヤコブソンの話に、大いに意欲を燃やした。 ダレスとしては、ソ聯の参戦前に何とか和平交渉に入りたいと考えていたのである。しかし、彼がヤコブソンに 示した条件は、日本側に期待よりは厳しいものであった。曰く
ダレスからの回答を、岡本が北村から聞いたのは 7月16日であった。思ったより苛酷な条件に、中将は頭を抱えたが、1日熟慮をした後、遂に梅津参謀総長宛に 電報を打った。中将は電文を書きながら、こぼれる涙を抑える事ができなかったという。 しかし、日本からは何の反応も無い。加瀬公使も外務大臣宛に請訓の電報を打ったが、これもなしの礫であった。 この頃日本では、ソ聯を仲介とした和平に必死になってたのである。
ダレスは、23日にもヤコブソンと会談し、日本側の回答を督促した。中将は再び参謀総長に督促電を打ったが、 返ってきたのは「和平工作は政府で手を打っているから、スイスでの工作は必要無い」という空疎極まりないもの だった。7月26日、遂にポツダム宣言が出された。しかし、スイスにおいてはまだ、米国との直接和平工作 に対する努力を続けていた。8月9日、北村は岡本と会い、加瀬公使に全権を委任するなら、米国側も交渉に応ずる 準備があることを伝えた。中将は一縷の望みをつなぎ、参謀総長に電報を打った。電文の中の「涙をふるって聖断を 仰ぐべし」という文言を、補佐官桜井一郎大佐は忘れられないという。
明けた10日、ポツダム宣言受諾をスイス、スウェーデンの両政府を通じ、連合国に伝達する依頼の電文が 舞い込んだ。こうして、スイスにおける和平工作は、完全に終了したのである。
8月15日、チューリヒの岡本宅を訪てきた桜井大佐を、中将は「明朝来てくれ」と云って送り出した。 ベルンへの帰りの車中、桜井大佐はふと嫌な予感を覚えた。ベルンに着いた桜井大佐は岡本宅に電話をかけたが、 果たして返事が無い。大佐は、チューリヒに住む北村理事に、様子を見てくれるよう電話で頼んだ。 北村と毎日新聞特派員若山淳四郎が、岡本宅のドアを開けたのは午後9時を回っていた。
「中将はやっぱり死んでいた。真白いワイシャツに黒い夜会服を着け、ベッドに仰向いていた。 満51歳の生涯を終えたのである。右手に握ったピストルを顎下に当て、左手で引き金を引いている。 一発の即死だった。桜井大佐が車中で不安にかられた、ちょうど四時ごろが推定された。 奇しき暗合である。弾丸は頭蓋の中にとどまって、火葬のとき初めて取り出された。 湖畔の中将のアパートでは、団欒を共にする家族も、虚心に語り合う同僚もいたわけではない。 海山何万マイルとはなれていては、声さえも聞く事は出来ない。異郷の孤独の中で、彼の思いを とらえたものは、何であったのだろうか。」(田々宮英太郎『大東亜戦争始末記』より抜粋)
ベッドの枕元に遺書二通が残されていた。 遺書は鉛筆書きで大きな字で、レターペーパー四枚につづられ、封筒に入っていた。そのうちの 一通は参謀総長に宛てたものであった。
事茲ニ至ル
過去ニ於ケル在独武官 第二部長及連絡使トシテノ責極メテ大
其ノ罪万死ニ値ス 依ツテ茲ニ自決シテ御詫ヒ申シ上ク
遥カニ謹ンテ 皇室ノ御安全ヲ祈リ奉リ 大和民族ノ克ク臥薪嘗胆シテ
新日本建設ニ邁進センコトヲ希フ
二千六百五年八月十五日十六時
大元帥陛下ノ万歳ヲ三唱シ奉ル 岡本清福中将
中将の葬儀は、18日ベルンの旧陸軍武官室で行われたが、 葬儀に参列したスイスの陸軍参謀総長は「日本に武士道が残っている事を、岡本中将 の死によって、はっきり知る事が出来た。これこそ、日本の強さの源泉で、感銘を深くする ものである」と其の死を悼み且つ称揚した。
岡本がドイツ通として、日本の状況に強く責任を感じていた事は、甲谷大佐の証言でも明かである。 甲谷が昭和19年6月、潜水艦で日本に帰ることになったとき、送別を兼ねてベルリンにやってきた岡本は、 甲谷に対し思い詰めた表情でこう云った。「甲谷君、東京に帰ったら、ぜひ上の人に伝えてくれ給え。 岡本は開戦の時の責任を痛感しております。 その過ちを償うために、これから永くヨーロッパにとどまって、今後の情勢判断を誤らないように、 大いに努力します。こう伝えてくれ給え」甲谷は激しい口調で、「閣下、とんでもない ことをおっしゃる。開戦の責任は、何も閣下一人にあるわけではありません。しかも、閣下の決心だけで、 そんな重大事が出来たわけが無いではありませんか」と遮った。しかし岡本はこう返した。「いや、そうではない。 昭和6年には、ドイツ駐在の武官補佐官となり、14年にはまたドイツ駐在の武官となった。参謀本部の情報部長 として、ドイツ中心の情勢判断になることを自分では警戒しながらも、結果的には開戦するように仕向けた事になる。 これは私の過ちだ。その責任は、今となっては、まぬがれるものではない」その時の岡本の表情と声を、 甲谷は忘れられないという。
赤柴八重蔵中将は云う。「大東亜戦争が始まったとき、 私は満州に居たんですが、岡本君が情報部長で開戦したなら、この決定には信用が置ける。和して同ぜずという 性格で、誰かの誘いなどで、ものを云ったり行動したりするような人ではない。豪傑タイプではなく、どちらかと云えば インテリタイプで、優れた軍人の一つの典型であった。人情に厚く、責任感も強い人だったから、 自決をしたと聞いた時は、さすがは岡本君だと思いました」これは、多くの同僚に共通する岡本観と云えるだろう。
(この稿は主に田々宮英太郎『大東亜戦争始末記』、今井武夫『支那事変の回想』に依る)