
岡田 資

明23・4・14〜昭24・9・17
| 明41・12 | 士官候補生 |
| 44・5 | 陸士卒(23期) |
| 44・12 | 任歩兵少尉・歩兵第40聯隊附 |
| 大3・12 | 任歩兵中尉 |
| 6・8 | 陸士生徒隊附 |
| 10・4 | 任歩兵大尉 |
| 11・11 | 陸大卒(34期) |
| 12・12 | 参本附勤務 |
| 13・12 | 参本部員 |
| 14・11 | イギリス大使館附武官補佐官 |
| 昭2・5 | 任歩兵少佐 |
| 3・3 | 陸大教官 |
| 4・1 | 第3師団司令部附 |
| 5・6 | 参本部員兼秩父宮御付武官 |
| 6・3 | 任歩兵中佐 |
| 8・8 | 教総課員兼陸大教官 |
| 10・3・15 | 任歩兵大佐・歩兵第80聯隊長 |
| 12・3・1 | 第4師団参謀長 |
| 13・7・15 | 任少将・歩兵第8旅団長 |
| 14・10・14 | 戦車学校長 |
| 15・9・24 | 相模造兵廠長 |
| 16・3・1 | 任中将 |
| 17・9・20 | 戦車第2師団長 |
| 18・12・27 | 東海軍需監理部長 |
| 20・2・4 | 第13方面軍司令官 |
| 20・12 | 東海復員監 |
| 21・9 | 巣鴨入り |
| 24・9・17 | 法務死 |
功二級岡田資中将は鳥取中学卒。歩兵科で陸士23期、陸大は34期(席次は13番)。 陸大卒業後、イギリスに駐在した。また秩父宮殿下の御付武官も務めた。
佐官時代には木曜会のメンバーだった。会の主要メンバーである東條英機は極端に中学出身者、つまり非幼年学校卒業者 を嫌っていたので、中学卒業の岡田が入っているのは不思議な気がするが、土橋勇逸は、やはり中学出身の鈴木貞一 の推挙ではないかと書いている。
岡田が法華経と出会ったのは陸大1学年の時であった。その後独学を続けていたが、歩兵第八十聯隊長に補される直前に河合日応師 を知り、1日だけその教えを受けて朝鮮に渡った。
2年間の聯隊長職の後、大阪の第四師団参謀長に補された。第四師団は当時関東軍隷下で 三江省にあったため、岡田は参謀長兼治安維持会委員長として、共産匪の覆滅に励みながら、日本移民の世話もしていた。
昭和13年、歩兵第八旅団長時代に転補され、東支、南満、京奉、津浦線を南下して進撃。途中、敵の黄河決壊作戦にも遭ったが、それも乗り越え、 東久邇宮殿下率いる第二軍の挺進隊として10月12日には京漢線を乗り越え、26日には漢口の北に殺到する偉功を建てた。 これにより岡田支隊は、感状を受けた。戦陣に於いて岡田は、大腸カタルに悩まされながらも、下腹部をつとめて日光に当てながら、結局医者の 世話にならずに職務を全うした。
戦場にあること1年余りで千葉の陸軍戦車学校長に転補となり、戦車将校や少年戦車兵の育成に努め、更に相模造兵廠長として戦車製造に励んだ。 戦車学校長として帰国したとき、靖国を参った岡田は、失った部下を思い慟哭したという。彼が人前で取り乱したのは、後にも先にもこのときだけだった。
昭和17年9月、わが国初の戦車師団が編成されると、その戦車第二師団長に補され、再び満洲に渡った。切迫した状況から、従来の操典通りの教育ではとても間に合わない。 装甲車輌500台、六輪自動車2000台から編成される戦車師団を以て、夜襲専門に近い訓練を徹底する必要があると考え、その決心を第一方面軍司令官であった 山下奉文に訴えると、山下はそれを快く聞き入れてくれた。その後1年4ヶ月に渡りこの方針を徹底し、昭和18年冬、 一面氷となった佳木斯に師団の全将校を集めて、近代都市への装甲兵団による襲撃要領を研究中に、飛電一本で名古屋に新設される軍需監理部長に 転補となった。後任の岩仲義治に率いられた師団主力は、その後山下と共にフィリピンに渡り、ルソン島での決戦に参加した。
東海軍監部長としては、空襲や地震に襲われながらも、航空機の増産に努力した。サイパン島の失陥は、当時名古屋の留守師団長であった同期の 中山惇が態々教えてくれた。「今後海軍航空隊は全然当てにならん。本土決戦は陸軍の自力に頼むのみである」 と云う中山の言葉に暗澹とし、更なる能率のアップに努めた。文武混在の軍需部門は中々難しいところがあるのだが、岡田は人使いに手腕があり、 時にはヤクザ者までうまく使ったという。
20年2月、本土決戦を控えて第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官の重責を担い、その職で終戦を迎えた。
が、この人を有名にしたのは、むしろこれ以降の生き様であった。(以下主に田嶋隆純教誨師著作より)
東海軍司令官として敵飛行士処刑の責を一身に負った岡田は、十九名の旧部下を率いて立った横浜第一号法廷を
、軍人生活最後の死場所と定め、自らこれを『法戦』と名づけていた。その証言台上一週間にわたる検事への論駁は正に日蓮の大獅子吼に彷彿たるものがあった。
A級を含めた総ての戦争裁判に於て、戦勝国の非を飽くまで攻撃するだけの胆力を持った被告は殆どなかったといわれている。
当然それは自分の首を堵けた自殺行為であり、仮に意気込む者があっても、弁護士がそうはさせなかったであろう。
例えば横浜裁判で、長崎の或る海軍俘虜収容所付き兵曹長が虐待の全責任を負わせられてしまったのに業を煮やし、
家族九人、全部殺されてしまった原爆の非を法廷で鳴らそうとして、忽ち判士長より中止を命ぜられたという例もある。
しかし、岡田の場合は、それができた。というのが、彼は旧部下一同と米人弁護士団に初対面するや、
開ロー番私個人の弁護は考えないで貰いたいと、挨拶した如く、捨身に徹底していたため、その心情に対し判士団も検事団も、
深く敬意を表していたからである。
こんなエピソードかある。 岡田は米国の無差別爆撃を鋭く論難し続けたのであるが、それに対し検事側は、処刑された九飛行士達の認識票たる金属の腕輪を 法廷の机にズラリと並べた。並みいる判士連も傍聴の外人達もシャンデリヤの下に空しく並び光る腕輪の列に食い入る如き視線を注いだ。 検事側は感情戦の成功に、ほくそ笑みながら、合衆国空軍将士の勇敢にして公正妥当なる戦略爆撃をたたえた。 それに対し、法廷には老若男女十数名の日本人が、次々に現われ出た。 白毛を束髪にした孤児院の園長さんは、銃撃の中に叫びをあげて倒れゆく幼童達の鮮血を(この目で見た)といった。 「私の家の周辺には広く何の軍事施設もありませんでした」と、右の手にした証人用マイクヘ低い呟きを寄せる婦人は、片肘からスッポリと腕を失っていた。 或る中年の女性が試問に答え、明らかなる違法銃撃の事実を述べ終ったとき、判士長は型の如く、 「何かいうことはないか?」と問うた。「あります。私の夫を返して下さい!!」 きっと眼をあげた婦人の視線から、判士席は一斉に顔を伏せた。 かくして、遂に岡田中将はアメリカ国務省よりこの法廷に宛て「無差別爆撃を認める」旨の声明電報獲得に成功したのである。 「裁判に勝って判決に負けた」とは、中将が常に語ったところであった。
ちなみに軍人としての岡田は、戦略爆撃を肯定する。「予をして米国航空総司令官たらしめば、矢張り日本本土爆撃を決行する」と書いている。 今回の米軍の場合、やり方が良くないと岡田は続ける。何故、鉄道を狙わないのか?大工場を狙わず、片っ端から焼くのか?変電所やダムの位置が わからない米軍では有るまいに。人命を多く損せずして、目的を達する方法を考えることが、公法遵法の精神ではないか。彼はこういって、米軍の 無差別爆撃を非難している。(岡田遺著『毒箭』)
軍司令官ただ一人の死刑に食いとめ得て、傍聴席の夫人に「本望だ」と言い棄てたまま死刑囚房に下った岡田は、「古来征戦幾人カ帰ル」と 獄窓を飛びゆく白雲に悠々として吟じ始めた。その後も再審委員会に向け、今度は自分の助命策戦をとると思いきや、 却って若い旧部下達の受命行為を有罪とした不当をなじる書類ばかり提出し、遂に間もなく彼ら多数の旧青年将校をして、 唯一の異例たる執行停止処分に浴びさしめ、勇躍獄外の社会に赴かしめたのである。 彼の死刑囚棟での明け暮れは、ただ仏道精進の一途に尽きていた。許された訪問時間は、 悉く他の死刑囚への仏教解説に充てられた。
9月15日の夜10時、執行命令を宣告すべく独房より連れ出しに行った米軍将校の中には、房外に岡田の姿の現れるまで終始不動の姿勢をとっていた者さえあったという。 所長が読んだ宣告文にも軽く頷いただけで、「何か食事の希望があるか?」との問いにもふだんの食事でよろしいといっただけであった。 17日の処刑当日も終日平常と何の変りもなく、看守らとも冗談を飛ばし合い、或る米兵が「アメリカ煙草をあげようか」と、話しかけると 「アイ、アム、グッドボーイ」と吸うのを断ったりしていた。 最後の晩餐には、殊更の注文はなかったが、御馳走があって田嶋隆純師も相伴した。初めから瓶に三分の二程残っていた上等の葡萄酒が出た。 「半分は最後の出発のとき飲むのに残して置いてくれ」と看視兵が田嶋師に囁いた。 予定した時間が余ってしまったが、岡田は自分と向き合った厨子を眺めながら、「この阿側陀さんの光背は少し曲がっていますねえ」などと、 実にのんびりしたものであった。
「9月17日午前0時半、彼の肉体のみが絞首台上に崩れた。」(田嶋隆純)
大岡昇平「ながい旅」は岡田中将を扱った書である。
(この稿未定)