西尾寿造

明14・10・3〜昭35・10・26

明33・12歩兵第40聯隊入(士候生)
34・12陸士入
35・11陸士卒(14期)
36・6任歩兵少尉・歩兵第40聯隊附
37・5〜39・2出征・戦傷
38・2任歩兵中尉
38・8歩兵第40聯隊副官
39・11陸士生徒隊附
40・12陸大入
42・12任歩兵大尉
43・11陸大卒(22期恩賜)
43・12軍務局課員
大1・8〜3・11ドイツ駐在
4・2参本部員
5・1陸大教官
5・11任歩兵少佐
8・4・15陸相秘書官兼陸軍省副官
9・8任歩兵中佐
10・9・7歩兵第10聯隊附
12・4・1陸大教官
12・8・6任歩兵大佐
14・3・18歩兵第40聯隊長
15・3・2教総第1課長
昭4・8・1任少将・歩兵第39旅団長
5・8・1兵本附(軍事調査委員長)
7・4・11参本第4部長
8・8・1任中将
9・3・5関東軍参謀長兼特務部長
11・3・23参謀次長
12・3・1近衛師団長
12・8・26第2軍司令官
13・4・30教育総監
14・8・1任大将
14・9・12支那派遣軍総司令官兼第13軍司令官
14・10・26免兼
16・3・1軍事参議官
18・5・3予備役
19・7・25東京都長官
20・8・31辞職
功一級西尾寿造大将は鳥取中学卒で歩兵科。陸士14期、陸大22期で 卒業席次は第二位だった。 陸士では古荘幹郎に、陸大では畑俊六に抑えられたのである。

日露戦争には少尉で出征し、沙河でミシチェンコ騎兵と激突した。歩兵第四十聯隊長、教総第一課長、 歩兵第三十九旅団長を歴任。教総第一課長時には、宇垣以来の名課長と謳われた。 その後、軍事調査委員長を経て参本第四部長となり、戦史をいじくって暇をかこっていたが、 関東軍参謀長に転出。2.26事件の後、参謀次長に栄転し、翌年には近衛師団長に親補された。

昭和12年8月、北支事変が始まると第二軍司令官として出征。 北支を平定した軍は南下を開始、台児荘で有力な敵と激突した。徐州に李宗仁の大軍が終結している事を 察知した大本営は急遽、徐州作戦を決定。しかしその作戦の直前の13年4月30日、西尾はその職を東久邇宮稔彦王に 譲り、教育総監に就任した。翌14年8月には大将に昇進。9月に支那派遣軍が創設されるとその初代総司令官となり、 第十三軍司令官も兼任した。総司令官としての西尾は、偏った対支感を排し、大局から小事務に至るまで 総軍の任務を処理して一分の隙も無かった。参謀連中は「総司令官は案を持っていくと、赤鉛筆をなめて待っている。 これで文句あるまいと思って提出しても、必ず大修正される」と畏敬の念をもって語った。 しかし桐工作をやったが成果はあがらず、16年3月にその職を畑俊六に譲り、軍事参議官となった。

彼は、極めて厳格な性格で部下に恐れられていた。 一方で、無口ではあったがそこそこ諧謔を解し、また非常な毒舌家でもあった。 昭和18年、関西方面を視察していたとき、記者から何か質問されたところ、 「わしはそんな事は知らん。毎朝塵箱をあさっとる奴がおるだろう。そいつに聞け」 と答えた。塵箱あさりとはもちろん東條首相のことである。東條はこの談話を聞いてかんかんに怒り 西尾をすぐに予備にしてしまった。しかし東條失脚後、東京都長官として復活したのである。 戦犯として拘留されたが不起訴となり釈放、昭和35年に亡くなった。

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