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美山要蔵

明34・6・14〜昭62・7・31

大12・7陸士卒(35期)
12・10任騎兵少尉・騎兵第9聯隊附
13・9〜14・7戸山学校学生
15・9〜昭2・3騎兵学校学生
15・10任騎兵中尉
昭3・1陸士生徒隊附
5・12陸大入
7・8任騎兵大尉
8・11陸大卒(45期)・騎兵第9聯隊中隊長
9・12参本附勤務
10・12参本部員
11・3兼元帥副官
12・8任騎兵少佐
12・10第5師団参謀
13・3〜14・11ソ聯・ドイツ駐在
14・8任騎兵中佐
14・10参本部員
16・7・17関東軍参謀
16・8第20軍参謀
16・9・26参本編制動員課長
17・8・1任大佐
19・6・5南方軍第1課長
20・2・20陸軍省高級副官
20・11復員
美山要蔵大佐は東幼優等、陸士35期、陸大45期で騎兵科であった。 梨本宮守正王の元帥副官を務めた後、昭和13年1月から14年10月までソ連駐在。大東亜戦争開戦直前に、 大本営参謀、参本編制動員課長に補された。
昭和19年の6月ごろ、彼は後宮淳参謀次長から、 対戦車攻撃法の研究を命ぜられ、一つの案をまとめた。そして前もってその成案を後宮に見せて内諾を得、 翌日、部内の課長会議で発表したところ、一人が異を唱えると、こともあろうに後宮までが 「そんな簡単な事で、戦車がやれると思うのか」と来た。途端に彼はプッツン状態になり、 「何が簡単だ、何が馬鹿馬鹿しいだ」と怒鳴りつけ、即日南方総軍に出張を命じられた。 サイゴンに着いてみると、南方総軍の作戦課長を命ずという電報が先に着いていた。

昭和20年2月、陸軍省高級副官として、東京に呼び戻された。豪傑肌の美山には、およそ不似合いな職務で あったが、これは額田坦人事局長によれば、敗戦を見越しての補職であったという。 敗戦によって巻き起こるであろう混乱に対して、彼の豪腕が求められたのである。 阿南惟幾陸相自決の報に接し、彼は「介錯の必要有り」と思い、陸相官舎に向かった。阿南は六段範士、 美山は戸山学校の銀時計で、二人は阿南の陸相就任以来、よく稽古をした剣友であった。 しかし彼が官舎に着いたとき、阿南はすでに息絶えていた。戦後は復員局次長を務め、さらに 千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会理事長も務め、昭和62年7月31日、長逝。

彼は生粋の江戸っ子で、喧嘩っ早く、陽性の楽天家であった。戦後彼がとある誌に寄稿した文に、 次のような一節がある。「戦争の末期、市ヶ谷台の陸軍省の屋上から、空襲で炎上する東京の夜空を見たことがある。 一緒にそれを眺めたものの多くが、戦後、『このとき日本の敗戦をはっきり悟った』と物の本に書いたが、 俺はバカだから、いっこうに日本が負けるとは思わなかった」 ご当人はいたって真面目、本気でそう思っていたそうであるが、読みようによっては、 後知恵で小賢しいことをぬかす連中への強烈な皮肉ととれなくもない。 よく性格をあらわしている、江戸っ子美山の面目躍如たる文ではないだろうか。

(参考文献『廃墟の昭和から』美山要蔵著 甲斐克彦編)

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