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木越安綱

安政1・3・25〜昭7・3・26

明6・2 教導団入団
7・9 教導団卒・任軍曹・熊本鎮台付
8・1 陸士入校(1期)
10・3 歩兵第9聯隊付
10・3 西南戦争に出征
10・4 任少尉試補
10・7 任歩兵少尉
10・12 陸士卒・歩兵第1聯隊付
11・6 陸士教官
11・9 陸士生徒大隊付
13・5 任歩兵中尉
15・12 参本出仕
16・1 ドイツ留学
16・2 任歩兵大尉
19・9 帰朝・陸大教授心得
20・4 参本陸軍部第1局員
20・4 兼陸大教官
20・6 監軍部参謀
21.2 任歩兵少佐・近衛歩兵第3聯隊付
21・11 近衛歩兵第4聯隊付
22・11 戸山学校教官
25・9 第3師団参謀
26・2 任歩兵中佐
27・7 第3師団参謀長心得
27・8 日清戦争に出征
27・11 任歩兵大佐・第3師団参謀長
28・6 復員
30・10 軍務局軍事課長
31・3 任少将・台湾陸軍補給廠長
31・10 台湾総督府陸軍幕僚参謀長
33・4 軍務局長
34・2 歩兵第23旅団長
37・2 兼韓国臨時派遣隊司令官
37・7 満州軍総司令部付
37・10 任中将・後備第1師団長
37・11 第5師団長
40・9 男爵
42・9 第6師団長
44・9 第1師団長
大1・12 陸軍大臣
2・6 待命
3・6 休職
5・3 後備役
9・5 貴族院議員
昭7・3 死去

明治大正の辛辣でなる評論家鵜崎鷺城、木越を評して曰く「風紳高邁頭脳明朗而も円満にして且沈毅、万夫を統率するの器局を具ふ。 一言にして評すれば八面玲瓏玉の如き文明的紳士なり」と。

正二位功二級木越安綱中将は金沢藩下士加藤九八郎の家に生まれた。幼名は三次郎といった。 父は陪臣の身ではあったが、その優れた学識が認められ、藩の砲術師範、天文方などを務めた。 しかし安政6年8月、九八郎は病死。残された家族は赤貧洗うが如き状態となった。 明治2年3月、木越家の養子となり、名も安綱と改めた。しかし養家での下男のような扱いに耐えかねたのか、 明治5年11月、東京に「出奔」した。安綱18歳のときであった。

東京に出た木越は明治6年2月、教導団に入った。翌年10月には卒業し、軍曹に任官され熊本鎮台に赴任したが、 4ヶ月後には東京に戻り、新設された陸士に士官生徒の第一期生として入学した。同期には伏見宮貞愛親王 の他石本新六山根武亮などがいた。 士官学校在学中に西南戦争が起ると、木越もこれに出征。可愛岳の戦闘で負傷した。 相当な重傷であったが一命を取り留め、戦争が終わると市ヶ谷台に戻り、学業を続け、その年の12月卒業した。 歩兵科の首席であった。

陸士を卒業した木越は、明治16年1月から早川怡与造と共にドイツに留学した。 早川は士官生徒第二期の首席であり、後に田村姓に復し、参謀本部次長を務めた人物である。 二人はベルリンでは陸軍大学校に通い、ドイツ兵制について学習した。丁度この頃、森林太郎 も医学研究のためベルリンに滞在しており、二人とは数少ない日本人ということで、よく交遊したそうである。

明治17年、陸軍卿大山巌を団長とする兵制視察団がドイツを訪れた。 団には近衛歩兵第一聯隊長川上操六、参謀本部管西局長桂太郎 も含まれていた。木越、早川はベルリンにおいて彼等の案内役を務めた。木越が桂と相知り、その才を認められた のは、このときであると思われる。このとき早川もまた、川上にその才能を認められ、以後累進していく。 明治19年7月に帰国した木越は、桂の下でフランス式からドイツ式への軍制改革に尽力した。

明治25年9月、第三師団参謀となった。師団長は桂、参謀長は井上光であった。 日清戦争開始時、井上が欧州に差遣されて不在であった為、木越は中佐の身分で参謀長心得となった。 第三師団は第一軍に属し、鴨緑江の戦いに参加。その後、大本営の意思に背いて海城を攻撃、占領。 そこで越冬したが、その間数次の大規模な攻勢を受け、また多くの凍傷患者を出した。 このことで、桂の戦下手という評判は確定的となったが、 それでも何とか海城を守り通したのは、木越の補佐が良かった御蔭であると云われている。 この戦役中、木越は同期のトップを切って大佐に昇任し、正式に第三師団参謀長となった。

復員した木越は、明治30年軍事課長に就任。しかしすぐに少将に昇進し、台湾総督府に転任し、総督児玉源太郎に仕えた。 明治33年4月、木越は台湾を後にし、陸軍省軍務局長となった。陸相は桂であった。 このとき、後に木越の運命を大きく揺るがす軍務大臣現役大中将制が制定された。

明治34年2月、軍務局長在職1年足らずで大村の歩兵第二十三旅団長に転任した。師団長は井上光であった。 明治37年2月5日、出動命令をうけた木越は、韓国臨時派遣隊司令官として4個大隊を率いて仁川に上陸し、 9日には京城を占領した。 その後は第二十三旅団長として鴨緑河、遼陽、沙河と第一軍指揮下で奮戦。 遼陽戦に於いては、旅団苦戦の際、自ら第一線の塹壕中で、敵弾が身辺に落ちても平然として指揮をとった。 10月13日、中将に進級して後備第一師団長に転補された木越は、続いて 11月2日には第五師団長に転補された。最年少の師団長であった。

第五師団は不運な師団であった。沙河の会戦において、悪路故前進が遅れた事を以って総司令部の不興を買い、 後備旅団と入れ換えられて総軍の予備兵力とされ、更に通信の不手際から、呼ばれもしないのに第一軍の救援に向かって、 無駄骨を折り、山田支隊は万宝山で大敗を喫するなど不手際が重なり、上田有沢師団長は 台湾守備隊司令官に左遷された。木越はその後任として、師団の期待を受けて赴任した。木越の勇名は、すでに全軍に 轟いていたのである。

翌年1月、黒溝台の戦いが始まると、第五師団は黒溝台を救援せよとの命令を受ける。 第五師団は夜を徹し雪を踏んで黒溝台に急行、その危機を救い、 師団は立見尚文中将から感状を授与された。 続く奉天の大会戦でも師団は、多くの損害を出しながら猛烈な戦い振りを見せ、第二軍司令官から感状を貰っている。 明治40年9月、論功行賞の発表があり、木越は功二級に叙せられ男爵を授けられた。

大正元年12月、第二次西園寺内閣が二個師団増設問題をきっかけに崩壊する。 陸相上原勇作が単独上奏、辞任し、陸軍が後任を出すことを拒んだのである。 西園寺の後を受けて桂が組閣、木越は陸相として入閣した。 次官は岡市之助、軍務局長は柴勝三郎、軍事課長は宇垣一成であった。

郷里の石川は沸いた。木越はこのまま大将そして元帥にまで昇るであろうと皆期待したのである。 しかし陸相就任が決まったとき、木越は妻に 「これで大将が駄目になったかね」と漏らしたという。 軍事課長、軍務局長を歴任した木越であったが、決して政治は得意ではなかった。 しかし恩人桂のためである。断れるわけがない。 桂はきわめて政治達者な人であった。政党嫌いの山縣と違い、 桂は政友会に対抗する新党を結成しようと考えており、大正2年2月に 立憲同志会を結成した。しかし、議会で政友会の激しい攻撃にさらされる。 詔勅を利用してこれを乗り切ろうとした事から、 尾崎行雄に「玉座を以って胸壁となし、詔勅を以って弾丸に代え、政敵を倒さんとする」 と攻撃された。 2月10日午後1時、第三次桂内閣はわずか50日余りで崩壊した。

後継首班は山本権兵衛となった。 増師問題について山本は、今年は無理だが来年なら・・・と匂わせ、 木越は桂とも相談の上、留任することとなった。 しかし、議会の焦点は増師ではなく、軍部大臣現役武官制であった。 山本は、この改正は避けて通れないと考えていた。 海軍は山本の海軍であり、海相斎藤は山本の一の子分であるため、 山本の意向に反対のわけがない。しかし、陸軍はそうはいかない。 木越は、三長官に諮らなければならないと即答を避けたが、 結局この問題で政府と争うと、増師まで駄目になると考え、 陸相の責任においてやむなく同意した。 このとき、部内の諒解を後回しにしたことで、木越の立場は決定的に悪くなる。

陸軍内部では、参謀総長長谷川好道が猛烈に反対であり、 軍事参議官会議でも反対と言う結論が出た。 長谷川と山本は、直接激論を戦わせ、その後長谷川は、反対の旨を上奏までした。 陸軍省内においても、次官以下、軍務局長、軍事課長、歩兵課長の菅野尚一、 騎兵課長植野徳太郎、工兵課長井上幾太郎、砲兵課長田村沖之甫等皆反対であり、 軍務局は、閣議に呈出する稟議書の作成をボイコットした。

仕方なく木越は、自ら稟議書を作成。5月2日、軍部大臣現役武官制は閣議決定した。 寺内正毅や岡次官は「官制改正が避け難いのなら、せめて交換条件として 増師の約束を取り付けるべきだ。それが出来ないなら大臣は辞任すべきだ」 と考えていたが、木越は忍んだ。内閣不統一で総辞職となれば、 ますます陸軍に対する風当たりがきつくなると考えたからである。 岡は5月7日に辞任。後任は本郷房太郎となった。

木越は全く四面楚歌状態であった。後に陸相を辞めるとき、木越は妻に 「井上(光)さんがいてくれたらなあ」としみじみ漏らしたというが、 井上は明治41年に亡くなっており、頼みの桂もこのときすでに病床にあった。 木越は、世間では長閥中の人物と思われているが、実際は桂や井上と親しいだけで、 完全に長閥の中に入っていたわけではない。木越は派閥意識の薄い男で、特別同郷の後輩を贔屓するようなことも なかったが、そういうところが、派閥意識の塊のような寺内あたりからすれば逆に、人の面倒を見ない薄情な男に見えたようだ。

5月27日には追い討ちをかけるように「陸海軍大臣問題について」という 怪文書が飛んだ。書いたのは、この問題に強烈に反対し 稟議書への連帯も拒んだ軍事課長の宇垣であった。宇垣は危うくクビになるところを 本郷次官に救われ、名古屋の連隊長に一時的に左遷されるが、 すぐに軍事課長に返り咲く。宇垣自身、23年後、復活した軍部大臣現役武官制によって 組閣を阻まれることになるのだが、それはまた別の話である。

同じ5月27日、木越は内大臣伏見宮貞愛親王に窮状を訴える手紙を出し、 最後の手段として「聖断ヲ仰グ」つもりだ、と書いた。 伏見宮は参謀総長長谷川大将を招き、「折合フベキ」ではないかと忠告したが、 長谷川は、陸相が非常手段をとるなら自分も同様にすると息巻いた。 伏見宮殿下は「そのような事態になれば、山本は内閣を投げ出すかもしれない。 そうなれば、陸軍は政局混乱の責任を問われ、国民の怨嗟の声は陸軍に集まる。 そのようなことになっても、陸軍に事態収拾の用意はあるのか」とたしなめるように言った。 殿下のこの言葉に、さすがの長谷川大将も唇をかみ締め、やがて官制改正に同意した。

6月13日、官制の改正が勅令として公布されると、24日に木越は陸相を辞任した。 後任には楠瀬幸彦が就任した。楠瀬は土佐出身で薩系列の人である。 薩派の上原や宇都宮太郎は、この問題に一貫して高みの見物を決め込んでいた。 あるいは上原は、同じ薩の山本と通じていたのかもしれない。

陸相を辞職した木越は、すぐ待命となった。長閥の逆鱗に触れたことによる 懲罰的人事であることは、火を見るより明らかであった。 その後、大正3年6月休職となり、大正5年3月後備役に入った。 その閲歴からいえば大将になるのが当然であったが、官制改正に殉じた形となったのである。

最後に木越の家族についてであるが、木越は明治12年に加賀藩の高名な数学者の娘遊喜 と結婚した。遊喜は一男一女をもうけたが、9年後に病没した。二人の間に生まれた長男の専八は陸軍少将となった。 明治21年、近衛歩兵第四聯隊付となった木越は、聯隊長伏見宮殿下の薦めで、坊城俊章伯爵の妹美津と再婚した。 伏見宮と木越は陸士の同窓で、宮は何かと木越を頼りにしており、二人の間はよほど隔意の無いものであったらしい。 宮が薨去されたとき、木越は祭典委員長を務めた。

明治26年、木越はまたも妻を病で喪った。日清戦争を目前にして後添えをもらうゆとりなどなく、子供四人は 金沢出身の元教師であった老女が面倒を見た。ただし長男の専八は、幼年学校受験が控えていた為、同期の親友 南部辰丙が世話をしていた。明治29年、縁あって判事柳田直平の娘ていと再再婚 した。彼女は安東貞美の姪にあたる。安東は木越と年齢が一つ違いで、格別仲の良い 将軍であった。ちなみにてい夫人の弟は民俗学者柳田國男である。夫人は昭和26年 まで長命し、六男四女を育て上げた。

娘婿の中には、兵学者として名高い村上啓作中将がいる。 村上が家に遊びに来るたびに、二人は書斎にこもって長時間話し合っていたという。

最後に『軍閥興亡史』より、軍事評論家伊藤正徳の木越評を掲ぐ。
木越は日清、日露の両役を戦い、特に黒溝台の一戦では、第五師団長として勇名を轟かし、戦功によって 男爵を授けられ、桂と山本の両内閣で陸相を歴任した陸軍の一偉材であった。単なる一介の武弁ではなく、 大局見る見識をも備え、後日陸軍を民主政治の下に保全する適任者であった。その木越であったからこそ、 その勇気と見識とを備えていたからこそ、最至難なる官制改革に賛成し得たのであって、凡庸の陸相ならば、 閣議の中途で辞職して其の陸軍的身分の保全を計ったに違いない。(中略)後に、貴族院は彼を互選して 其の人物を正当付けたが、軍の偏狭は永く彼を敵視した。しかしながら日本の歴史は、茲に一人の木越安綱が、 軍部の中に斯かる見識と勇気を以って踞然として存在した史実を書き漏らさないであろう

(この稿は主に舩木繁『陸軍大臣木越安綱』を参考にした)

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