石本新六

安政1・1・20〜明45・4・2
| 明2・1 | 開成所姫路藩貢進生 |
| 3・10 | 大学南校入 |
| 6・ | 陸幼入 |
| 8・1 | 陸士入 |
| 10・7 | 任工兵少尉 |
| 11・12 | 陸士卒 |
| 12・4 | フランス留学 |
| 13・5 | 任工兵中尉 |
| 14・8 | フォンテンブロー砲工学校卒 |
| 15・ | 帰朝 |
| 16・2 | 任工兵大尉 |
| 16.11 | イタリア差遣 |
| 20・2 | 帰朝・参本第3局第2課員 |
| 21・2 | 任工兵少佐 |
| 21・5 | 参本第2局員 |
| 24・11 | 任工兵中佐 |
| 25・7・1 | 軍務局工兵事務課長 |
| 28・1・29 | 任工兵大佐 |
| 29・5・9 | 工兵課長 |
| 30・9・15 | 築城本部長 |
| 30・10・23 | 兼砲工学校長 |
| 31・3・3 | 任少将 |
| 32・6・15 | 免兼 |
| 35・4・17 | 陸軍総務長官 |
| 35・4・17 | 兼法務局長 |
| 36・12・5 | 陸軍次官兼法務局長 |
| 37・10・13 | 任中将 |
| 38・12・28 | 免兼 |
| 40・9・21 | 男爵 |
| 44・8・30 | 陸軍大臣 |
| 45・4・2 | 死去 |
石本は安政の大地震の為一家殆どを亡くし、幼い頃より苦労したが、明治2年藩の貢進生としなり、大学南校に入学。同6年陸軍幼年学校に入校 し、同8年2月、陸軍士官学校士官生徒の第一期生となる(工兵科)。同校在学中に西南戦争に出征。工兵科の首席で 卒業後は、明治12年から15年までフランスに留学し、フォンテンブロー砲工学校を卒業。さらに同16年から20年まで イタリアに留学。
帰国後は、陸軍士官学校教官、参謀本部第二局員、陸軍大学校教官を経て陸軍省工兵課長となった。 工兵課長を約5年間務めた後、築城本部長に就任。やはり約5年間務め、明治35年4月、寺内正毅陸相の下で、 総務長官(次官)となる。その職に在ること実に9年5ヶ月、緻密な頭脳と堅実な事務能力で、寺内の寵遇を受けた。 日露戦争後、男爵。明治44年8月、寺内の後任として、西園寺内閣に陸相として入閣。当時、陸軍にとって最大の 懸案であった二個師団増設問題で、財政整理を進めたい政府と、陸軍の板ばさみとなり、翌45年4月、59歳で急死した。 精励な彼は、死の間際まで事務を執っていた。この点において彼は部下から尊敬を受けたが、一方蓄財に熱心な事と 寺内に頤使される様は、一部の非難を招いた。