坂西一良

明24・1・26〜昭21・9・6

明44・5 陸士卒(23期)
44・12 任歩兵少尉・歩兵第10聯隊付
大3・12 任歩兵中尉
7・11 陸大卒(30期)
8・5 参本勤務(ドイツ班)
9・8 任歩兵大尉・参本部員
11・2 参本付(ドイツ出張)
12・2 ドイツ大使館付武官補佐官
15・8 任歩兵少佐・陸大教官
昭4・8 参本部員
5・8 任歩兵中佐・教総課員
6・8 陸大教官
7・2 ドイツ大使館付武官
9・3 兵本付
9・8 任歩兵大佐・軍事調査部調査班長
10・4 停職
10・10 参本付
10・12 関東軍第1課長
12・3 歩兵第59聯隊長
13・3 参本付
13・7 任少将
13・9 陸大教官
13・12 陸大幹事
14・12 歩兵学校長
15・11 ドイツ大使館付武官
16・1 東京発
16・3 任中将
18・1 帰国
18・1 参本付
18・2 第35師団長
19・4 第20軍司令官
21・9 上海で戦病死

坂西一良中将は歩兵で陸士23期、陸大30期。軍医稲田清淳の長男として生まれ、 坂西利八郎中将の養嗣子となった。稲田正純は実の弟である。

少佐時代には木曜会に、中佐時代には桜会にも名を連ねたが、軍事調査部調査班長時代に、在郷将官を 侮辱する事件を起こし、6ヶ月の停職処分となった。その後関東軍作戦課長、陸大教官、陸大幹事、 歩兵学校長を歴任。大東亜戦争開戦時にはドイツ駐在武官であったが帰国し、昭和18年2月、第三十五師団長として 北支の治安維持に従事し、19年4月、第二十軍司令官となった。

昭和20年1月29日、支那派遣軍は第二十軍に対し芷江作戦を発令した。当面の敵は湯恩伯の第三方面軍であった。 第二十軍は第百十六師団及び二聯隊を基幹とし、沅江以東の地区において当面の敵を撃破し、次いで 芷江の航空基地群を占領する企図の下に、4月中頃宝慶及び東安より西進を開始せるも、4月末洞口南北の既設 陣地附近において攻撃頓挫し、27、8個師団を算する敵の攻勢に会った。坂西軍司令官は尚も強気に攻撃を 続行しようとしたが、支那派遣軍作戦課長西浦進大佐は総参謀長 小林浅三郎中将と謀り、この上は深入りをせずに思い切って作戦を中止 するを可とし、軍司令官岡村寧次大将に具申した。岡村もこれを容れ、5月9日、 支那派遣軍は作戦中止を命じ、第二十軍は戦線を整理、6月上旬宝慶附近に撤収した。 こうして坂西は中支で終戦を迎えたが、翌21年9月、上海で病死した。

実は坂西は沖縄第三十二軍司令官に内定していたが、健康上の理由で日本に帰ってくる事ができず、 彼の代理として、牛島満中将が起用されたという話がある。

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