鎮台

表1:明治4年7月の鎮台の兵力
東京鎮台(東京)歩兵10大隊第一分営(新潟)歩兵1大隊
第二分営(上田)歩兵2小隊
第三分営(名古屋)歩兵1大隊
大坂鎮台(大坂)歩兵5大隊第一分営(小浜)歩兵1大隊
第二分営(高松)歩兵1大隊
鎮西鎮台(小倉)歩兵2大隊第一分営(広島)歩兵1大隊
第二分営(鹿児島)歩兵4小隊
東北鎮台(石巻)歩兵1大隊第一分営(青森)歩兵4小隊

明治4年4月、薩長土の御親兵を基幹に東山、西海両鎮台が設置された。同年8月、廃藩置県を契機に各藩兵隊を解散し、 東京鎮台大坂鎮台鎮西鎮台東北鎮台の4鎮台が設置された。そのときの兵力は表1の通り、都合歩兵23大隊10小隊であった。明治5年、御親兵を近衛兵と改称。近衛局が置かれた。 西郷が征韓論で下野すると、この近衛が大きく動揺した。明治天皇が態々

一新ノ業日洽カラスシテ未タ其半ニ至ラス今ヤ一層努力スルニ非スンハ成功期スヘカラス況ヤ北地ノ事情其余国事多端内外不容易形勢ニ際シ朕深ク憂之汝等宜ク朕カ意ヲ体認シ一層勉励其職ヲ尽サンコトヲ望ム
と言う勅語を出して鎮めようとしたが効果は無く、篠原国幹少将を筆頭に多くの薩系近衛将校が官を辞め鹿児島に帰ってしまった。

表2:明治6年7月の管区
軍管区師管区(営所所在地)
一(東京)二(佐倉)三(新潟)
四(仙台)五(青森) 
六(名古屋)七(金沢) 
八(大阪)九(大津)十(姫路)
十一(広島)十二(丸亀) 
十三(熊本)十四(小倉) 

明治6年、徴兵令が公布され、7月には鎮台条例により北海道を除く地域が6の軍管区、14の師管区に分けられ、各軍管区に鎮台が、各師管区に営所が置かれた(表2)。そして新たに名古屋鎮台広島鎮台が設けられた。翌7年、歩兵大隊を聯隊編制に改編した。明治9年にはその兵力は近衛と鎮台を合わせて、 歩兵16個聯隊、騎兵2大隊、砲兵7大隊、工兵2大隊2小隊、輜重兵1中隊1小隊にまでなっていた。翌年西南戦争が勃発すると、近衛、鎮台は当然出動したが、それだけでは足りず、巡査隊が編成された。結局この戦争で官軍は、歩兵55大隊、砲兵6大隊およそ54000名を動員した。

明治12年9月、条例が改正され、第三師管の営所が新潟から高崎に移った。更に営所に司令部と後備軍司令部が置かれた。また監軍本部条例に対応して、一旦緩急あらば、鎮台司令官が旅団長となり、監軍部長がそれを指揮する師団長となりその方面のことに当たることが明示された。

明治18年、鎮台条例が改正され更に旅団条例が制定された。 これにより全国は7軍管区に分けられ、1軍管区に2師管置くことで統一された。 各軍管区に鎮台を、各師管区に営所を置くというのは従来どおりであるが、 これまで聯隊長が務めていた営所司令官(後で云うところの衛戍司令官)は新設の旅団長が務めることとなった。 当然、鎮台司令官の戦時職は、従来の旅団長から師団長に格上げされた。 1鎮台に歩兵2個旅団が属し、その1旅団に歩兵2個聯隊が属するという形となり、 後々まで続く軍の基本形はここに出来上がったといえる。5月には屯田兵条例が制定され、 屯田事務所が屯田兵本部となった。

明治21年5月、鎮台条例が廃止され、師団司令部条例、旅団司令部条例、大隊区司令部条例、衛戍条例が制定された。 経費の関係で2年遅れの23年3月、近衛条例が廃され近衛司令部条例が制定された。 更に翌年12月、条例が改正され、都督は師団長と改められた。 こうして屯田兵を除く全軍が、完全に師団制に移行したのである。

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